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2008年08月17日
靖国参拝とは
上坂冬子さんが、日本に喝を入れるとして、福田首相に靖国参拝を、とハッパをかけたと報道が有りました。
私にとっては、これも東京一極集中の無神経としか受取れません。
私もそうだが、日本人は、何故素直に、第二次世界大戦を総括反省する墓苑の位置づけを、明確に出来ないのか?
江戸時代の参勤交代制度は、未だ顕在なのか?
地方の地域経営が幻影だとしても、それなりの機能を発揮している例も有ります。
市議会よりも存在感と報道された、新潟県上越市の地域協議会は、委員は選任投票選挙で選ばれ、市民主体の独自提案をしています。
昭和の大合併で、行政の拠点が無くなった中心部以外が、急速に寂れたと感じた住民への感情を配慮してだそうです。
長沢の生穂第二小学校の来年度からの休校に際しても、住民の実行力を伴った知恵が活かされています。
1875年開校、かつて児童が100人以上いた学校も、現在は7人、少人数の教育を否定なんかはしませんが、公共の教育として、適正規模の教育環境の保持は、大人たちの責務です。
子供達の教育の場としての学校と、地域の生活拠点としての学校と言う名の施設を、存在するものの喪失感を今は、辛抱して、新たな一歩を踏み出すための祭りや、同窓会の開催は、多くの人々に評価されています。
行政の方も、財政破綻の原因が、公務員の人件費、給料が高すぎるからなどという誤解を、明確に解いていかなければなりません。
よく、財政が悪いなら公務員の給料を下げれという意見が有りますが、それであるとすれば、儲かったら報奨金を渡せという事に繋がります。
公共とは、全体の福祉を公正な視点で、運営していく仕組み以外にあり得ません。
利潤だけを追求するなら、商売をするべきで、手段として公共を利用する視点は、排除しなければならない。
・特別養護老人ホーム淡路荘。
31回を数える、地域交流盆踊り大会が、開催されました。
写真は、オープニングを飾る、野島小学校の28名の児童による、暴れ馬の演技です。
地域交流のあり方は、その場所、環境、そして人情によって決まります。
ショートステイも入れて、120人の入所者とその家族たちのひと時は、何ものにも代えれない貴重な時間でした。
・立命館大学関係者との意見交換会。
佐野運動公園で、野球部が夏期合宿を実施しています。
これもまた、地域交流の一環です。
学舎が、そこに無くても、人的交流で文化は育ちます。