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2012年11月02日

伊賀塾。

小柳仁塾長・医師。
「日本の医師は世界一優秀で献身的です。しかし、最近、医学部に入学してくる学生に、いわゆる偏差値坊やが増えている。受験勉強のテクニックにたけた学生。社会的に地位が高く、収入も高いからと、親に言われるまま、医学部を目指す。」
高い志が必要、と結んでおられました。

「平成の南海地震に備える。」   

平成7年(1995)1月17日未明、兵庫県南部地震(阪神淡路大地震)が発生、私は唯一、神戸市街地に繋がる新神戸トンネルを抜け、地盤沈下を起こしていた加納町4丁目の交差点を、警察官の制止を振り切り、「災害対策本部へ行きます」と叫んで兵庫県庁に出勤しました。時の所属は、兵庫県土木部総務課長。
不眠不休で兵庫県庁が災害復旧、復興に取り組んだそれが始まりでした。
当時の事を語るとき、出会った老人の言葉が今も印象に残っています。「これは戦争だ!」
そしてもう一つ、火災現場に残された言葉の一節、「貴女は風になった」でした。
瞬時に6千人以上の人間が亡くなったと言われる現場で感じた事を活字にするのは難しい。
驚愕、恐怖、悲しみ、そして立ち上がった人々の思いは一つでした。「兵庫復興」

そして、歴史は不思議な巡り合わせを与えました。
新生淡路市長2期目。平成23年(2011)3月11日午後。東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生、直後に起きた津波にもより、行方不明者も含め2万人以上が亡くなられました。原子力発電所の被害にもより、一年八ヶ月経った今も、復興はもとより復旧すら目途が立たない地域が多いようです。
淡路市は旧津名郡5町が合併してできた新市。その中に旧北淡町、広域的な視点での震源地として今も知られる野島断層が有ります。震源地の市としての責務からも、発生直後、0泊3日の強行日程で支援の派遣隊、長期、短期の支援の職員派遣などを続けてきました。
今も、亘理町に長期派遣の職員が居ます。

昭和21年(1946)12月21日、今から66年前、昭和の南海地震が起きました。古老の証言によると、淡路市では、津波の大きな被害は無く、西海岸の室津神社の石段の一番下まで海水が届いたようです。それよりも、高知測候所に残る9分の揺れが、人家等の被害を大きくしたようです。
安政の南海地震は、それよりも90年前に発生しており、歴史は百年周期の発生を暗示しています。
今は、平成の南海地震に備えなければなりません。10月28日、雨の日曜日に拘らず、淡路市防災訓練(淡路島一斉防災訓練)に多くの人が参加しました。
有事の時にどう備え、対応し、そして弱者をどう支援するか、課題は多いですが、歴史に学び、市民と共同して、故郷の安全安心を確保する思いを強くしている昨今です。

・「いつかきっと帰りたくなる街づくり」事業の推進。
帰郷された方に、住民票を手渡ししました!
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(今日一日)
・辰巳会総会。島内外から生穂小学校の同窓生が集まり、昔を懐かしがっていました。