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2013年04月04日
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橋下大阪市長のツイッターの読者が、百万人を超えたそうです。
「もっと短く書けーーー」などと言われているとか。
私の場合は、仕事が忙しくて、日程調整もままならぬ時が有ります。
不備な表現をする間も無いーーーか。
(今日一日)
・市民との意見交換。
OBの再就職、今年の参議院選挙等、選挙の年のことなどについて意見交換をしました。
いずれにしても、自分自身がどう考えているかが重要です。
・関西総合リハビリテーション専門学校、入学式。
13回目の入学式。132名が入学しました。
・市民の葬儀。
・三井住友銀行の来庁。
去る人、来る人、淡路島を宜しくお願い致します。
・安倍茂淡路県民局長の来庁。
淡路島への赴任は初めてだそうです。宜しくお願い致します。
・志筑新島町内会と専門学校との面談。
避難場所について意見交換をしました。
・連合町内会との意見交換。
・あわ神、あわ姫の双子の名前披露。観光の発展の一要素、物語の創出です!
「なぎ」高嶋由紀子さん。「なみ」笹本広大君。有難うございました。
・市民の来庁。
・プレスインタビュー。
・国営明石海峡公園センター長の来庁。
・慶応義塾大学院、投石さんのインタビュー。
淡路島の将来を語りました。
・淡路市長公室発足会。
(時の流れの中で)
さようなら先輩。
6月1日午前3時半頃、丁度、私がメールを点検していた頃、元北淡町長、小久保正雄さんが亡くなられました。
早朝のメールでその事を知った時、旧津名郡の一つの歴史が幕を閉じたのを感じました。
平成6年の初秋であったか、「門、北淡町へ帰るは」と、当時、県職員であった私に、6期を勤めた小久保県議会議員は私に言いました。
国会を目指すと日頃から言っていた高校の大先輩の胸中は、どうであったか?
10月北淡町長に就任、そして三ヶ月後、阪神淡路大震災に遭遇、時の町長として日本に知られることになりました。
淡路島が、平成の大合併の模索を始めた頃、私は淡路県民局長として故郷に赴任、小久保町長に再会しました。
大震災、合併問題という北淡町にとって激動の時代を二期勤め、合併という難題を後継者に託して、引退をされてからは、時折会って話す以外、付き合いも疎遠になっていました。
そして今日、時の淡路市の市長として、丁度、一回り上の先輩を見送る事になりました。
一期目の時のメールです。
義理と人情を価値観の一つにして大事にしてきました。
「人を貶める行為が、自分を高める事ではない」政治家、小久保正雄先輩から、教わった一つです。