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2016年06月12日

文化

しばしば人は勘違いをするが、文化は外見の形ではなく、中身。
それを逆手にとって、語る人が居るが、中身のあるものは多くを語らない。

自己主張もそうで、自分の事だけを語るものは、自己満足しか得られない。

・主な出来事(門 日誌)
・門下市塾、後片付け。

・茶道裏千家・淡交会淡路支部巡回講演会。しづかホール
  淡路支部の副会長として歓迎のご挨拶をしました。
(概略)
淡路島における茶道の歴史は深く、特に、「志筑の茶は違う」と称せられた興隆の租は、明日庵宗伯・浜中常吉(つねきち)(文久3年1863年~大正14年1925年)まで遡ります。
そして、宗伯が、閑日庵宗悠(正木長八郎)ら志筑の粋人有志と茶を始めたのが、明治43年1910年、106年前頃です。

その頃、京都から裏千家12代、又玅斉直叟(ゆうみょうさいじきそう嘉永5年1852年~大正6年1917年12月8日)が志筑の浜中家に来られ、その指導を受けて、明日庵が作られました。大正元年のことです。(1912年8月8日)それ以来、志筑の茶会はより盛んになりました。

私の亡き母も、自宅の一室を茶室にして、友達と楽しんでいたのを記憶しています。
(私の家を拠点にしていた私の友人たちにとっては、大いに迷惑でしたが)

旧一宮町明神の船持ちを租として志筑の大地主であった浜中常吉さんは、嗜みの茶から茶道へと高め、その明日庵は、高島ふさ子さんに移譲、旧津名町に寄贈され、12年前の淡路市誕生により、淡路市が継承、紆余曲折を経て、淡路市から高島家に返還され、今は高島家から、一宮地区に在る伊弉諾神宮に寄贈され、市民を楽しまさせてくれています。

西海岸を租とする心は、東海岸を経て、又、故郷に帰った不思議な縁の物語は、パワースポットの島と言われる淡路島に似つかわしいものです。

その島に、千玄室大宗匠をお迎えしたのが2年前でした、今や世界的に広まったキャッチフレーズ、「一盌からピースフルネスを」の心を聞く機会を得ました事は、言葉に尽くせない感激であります。

今回も、淡路市民、島民を代表して、歓迎の言葉を申し上げますとともに、良き機会を与えていただきましたことに深く感謝を申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。

(参考文献:津名町史、一服どうぞ、淡交タイムス)


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・東浦地域市民との意見交換